香港合気道協会会長 ケン・コティエ師範

香港合気道協会会長 ケン・コティエ師範

合気道研究家ギヨーム・エラール氏が、合気道の発展と普及に寄与した外国人武道家の伝記を紹介していく本シリーズ。今回はイギリスより本部道場を訪れ、植芝盛平翁より学びし、ケン・コティエの物語。“香港合気道協会”創設者にして、また長年、合気道外国人コミュニティの柱として、世界中へ合気道を普及させたコティエ師範の歩みとは!?

hiden2302cover 1この記事は、「月刊秘伝」2023年04月号に掲載されました。

「ケン・コティエ」こと、ケネス・ジョージ・エドワード・コティエは、1933年12月14日、リバプール近郊の労働者階級の家庭に生まれました。この日は、彼がいつも指摘していたように、合気道開祖・植芝盛平先生の生誕からちょうど50年後のことでした。

武道の始まり

コティエは1958年、バーケンヘッドにある阿部謙四郎先生が代表を務めるイギリス柔道カウンシル(BJC)の道場で柔道を始めた。阿部先生は植芝盛平先生から合気道六段を与えられており、ロンドンでの柔道セミナーの際に合気道の講習を行っていた。コティエはロンドンでそのような講習を受けた後、テリー・エズラが率いる地元の合気道研究会に参加することにした。

コティエは1964年の東京オリンピックに参加するため、日本へ渡った。

「阿部先生が、翁先生(植芝盛平)のところへ行って合気道の稽古をしなさいと言うのです。阿部先生は、私が柔道ではだめだと思い、私を追い出したかったのかもしれませんね。講道館には入門しましたが、そこで稽古をしたことはありませんでした」

コティエ師範

翁先生との出会い

1964年、寒い月曜日の夜、コティエは合気会本部道場に入り、翁先生に会う機会を得た。

「翁先生は温厚な人柄で、時に微笑み、一人、二人と個別に話をされました。私はその様子を、孫とおしゃべりしているおじいちゃんに例えました。81歳の男性がこれほどまでに協調性を発揮し、素早く反応し、しかもしっかりとした姿勢を保つことができるとは信じられませんでした……」

コティエ師範

アラン・ラドック(左)とケン・コティエ(右)、本部道場にて。

アラン・ラドック(左)とケン・コティエ(右)、本部道場にて。

コティエはすぐに本部道場へ入門することにした。翁先生や他の先生たちの稽古にも何度も出席した。本部では当時、12人ほどの外国人が定期的に稽古をしていた。彼らはマットの上でも外でもよく会い、日常生活でも助け合った。コティエは道場でもよくジョークを飛ばす面白い男として知られていた。

ラドックが 収集しまとめたコティエの手記集。※ラドックについては、本誌2022年2月号掲載記事参照。

アラン・ラドックが収集しまとめたコティエの手記集。※ラドックについては、本誌2022年2月号掲載記事参照。

当時彼はまだ道場に住んでいたため、グループは翁先生と特権的に接触することができた。ある時、翁先生の誕生日を祝うためにケーキを焼いて持っていこうという話になった。

「ジョアン・シマモトが『翁先生の誕生日に参加しませんか』というので、『いつですか』と聞き返すと、『12月14日です』と。そこで私は『あ、私の誕生日と同じだ!』と答えましたが、彼女は信じていないようでした(笑)」

コティエ師範

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本部道場の外で翁先生のケーキを持つ一行(撮影:ジョージ・ウィラード)。後列左から右へ:ノーマン・マイルズ、ジョアン・ウィラード、パー・ウィンター、アラン・ラドック、不明、ジョアン・シマモト、ジョー・ディッシャー、ヘンリー・コーノ、ケン・コティエとふざけ合うテリー・ドブソン。

コティエは、いくつかの学校とプライベートレッスンで英会話を教え、生計を立てていた。また、合気道を学ぶ生徒たちにも英語を教えていた。当時、彼は自分の時間の大半を稽古に費やしていたが、生徒たちはクラスの合間に道場にて稽古を続けることが許されていた。

cottier party

コティエのために開かれたパーティー(左から右へ:ケン・コティエ、ノーマン・マイルズ、ボブ・ナドー、ヘンリー・コーノ、ジョアン・シマモト、パー・ウィンター)。

「ある朝、午前中の稽古が終わって道場に残っていたのは、ジョージ・ウィラードと私だけでした。ジョージが力強く握るため、私は彼を動かすことができないでいました。すると突然、ドアが開いたと思ったやいなや、翁先生がすでに道場にいるのです。翁先生は状況を察知して、ジョージに私も同じように『強く掴みなさい』とはっきりと伝えたのです。その時、翁先生はジョージの顔面にパンチをお見舞いしました。そして、私の方を向いて『わかったか』というような顔をしました。そして、道場を横切り、自分の家へと入っていったのです」

コティエ師範

what is aikido

藤平光一著『合気道とは何か』の表紙。

1965年12月、コティエは植芝吉祥丸の前で初段審査を受けた。コティエは日本に残ることを望んでいたが、病に倒れた母の看病のため、1967年3月、イギリスに帰国した。

「合気道新聞」1965 年12 月号に掲載された昇段者リスト。コティエは初段として掲載されている。

「合気道新聞」1965年12月号に掲載された昇段者リスト。コティエは初段として掲載されている。

その後は、1966年に合気会の代表として渡英した千葉和雄先生のセミナーに参加するなど、2年間イギリスに滞在し、合気道の稽古を続けた。

二度目の旅と香港での合気道再開

コティエは翁先生との再開を熱望し、1969年4月18日、客船に乗り込み、再び英国から出発した。途中の港でジョアン・シマモトから手紙が届き、4月26日に翁先生が亡くなったことを知らされた。

「船の手すりにもたれかかり、一人泣いたのを覚えています」

コティエ師範

1971年5月、ヴァージニア・メイヒューが数年前に始めた香港での合気道を再開させるため、コティエは参段を授与され、本部道場の正式な代表として香港に派遣された。

香港で指導するコティエ(1972 年)。 気道新聞』1971 年10 月号に掲載され た香港の道場写真。手前左側にひざま ずいているのがコティエ。

香港で指導するコティエ(1972年)。気道新聞』1971年10月号に掲載された香港の道場写真。手前左側にひざまずいているのがコティエ。

彼はレナード・レオンとその弟のジョージの助けを借りて香港合気道協会を設立した。

「彼らはヴァージニア・メイヒューによく訓練されていたので、私は現地に着くとすぐに2人を2級に昇級させたのです」

コティエ師範

コティエとレオン兄弟は、九龍のホーマンティン・ストリートにアパートを借りた。壁を壊し、十分なスペースを確保して稽古場を作った。

「私たちが住んでいたのは、商人や合気道関係者以外の人が住むような普通のアパートでした。テーブルや椅子などはなく、翁先生の写真とマット、木剣、杖など、私が手に入れたものが床に置かれた道場を見て、皆、かなり驚いていました。中には『ここでは一体何が行われているんだ?』と、いろいろ質問してくる人もいましたね」

コティエ師範

香港で指導するコティエ(1972 年)。気道新聞』1971 年10 月号に掲載された香港の道場写真。手前左側にひざまずいているのがコティエ。

香港で指導するコティエ(1972年)。気道新聞』1971年10月号に掲載された香港の道場写真。手前左側にひざまずいているのがコティエ。

コティエとその弟子たちは、新聞記事やテレビ番組への出演を通じて、積極的に合気道の普及に努めた。1972年9月に帰国する前に、コティエはレナード・レオンと彼の弟ジョージを初段に昇格させた。

香港のテレビ番組「Enjoy Yourself Tonight(今 宵歓楽)」でインタビューに答えるコティエ。

香港のテレビ番組「EnjoyYourselfTonight(今宵歓楽)」でインタビューに答えるコティエ。

日本への帰国とその後

日本に帰国したコティエは、合気会本部道場で稽古を続けた。彼は、時代とともに大きくなった本部道場の外国人コミュニティの柱であった。

1975年5月、植芝吉祥丸道主 宅で行われた外国人合気道家による座 談会のレポート。左から:ミゲル・カ ルロス・トウイシュ、ホアン・M・リ ベラ、ペア・ウィンター、クリスチャン・ ティシエ、リチャード・H・ウッドワー ス、ライフ・リンガード・ニールセン、 道主、ケン・コティエ、ビオ・ガブリ エル(写真には写っていない)。

1975年5月、植芝吉祥丸道主宅で行われた外国人合気道家による座談会のレポート。左から:ミゲル・カルロス・トウイシュ、ホアン・M・リベラ、ペア・ウィンター、クリスチャン・ティシエ、リチャード・H・ウッドワース、ライフ・リンガード・ニールセン、道主、ケン・コティエ、ビオ・ガブリエル(写真には写っていない)。

コティエは年に2回香港に行き、セミナーや試験を行っていた。そして1981年、コティエは日本を離れる。

コティエは何度か南アフリカに行き、そこで多くの生徒たちを昇段させた。また、本部からの使節として積極的にシンガポールとフィリピンでの合気道稽古を支援し、現地の2つの団体の合気会認可申請が正当であると確認している。

1991年8月に開催された香港合気道協会20周年記念行事の企画のため、コティエは香港へ再び渡った。9ヶ月ほどの滞在予定だったが、結局6年半滞在し、25周年記念事業の企画までを無事にやり遂げた。

1991年、香港合気道協会設立20周年記念 (当時の道場長・植芝守央氏出席)。前列左2番目 から:ケン・コティエ、ポール・リー、植芝守央、 藤田昌武、金澤威

1991年、香港合気道協会設立20周年記念(当時の道場長・植芝守央氏出席)。前列左2番目から:ケン・コティエ、ポール・リー、植芝守央、藤田昌武、金澤威

1997年、コティエは香港を離れる。その後はリバプール近郊のチェスターに定住し、英国国内外でセミナーの指導を続けていた。私が彼に会ったのも、2003年頃、リバプールで開かれたセミナーでのことである。

ケン・コティエとの思い出

アラン・ラドックは私の師匠で、よくケンのことを話していた。ある日、私がコティエ先生のイギリスのセミナーに参加することを告げたところ、彼の反応には驚かされた。アランは、私が彼の友人に会えることをうれしく思うと同時に、「ケンの受け身を取るときは、十分に気をつけなさい。彼はあなたを傷つけてしまうかもしれないことに注意する必要がある」と警鐘を与えたのだ。

セミナーに参加した私は、コティエ先生の話し方や身のこなしはとても優しいと感じた。マットの上でも外でも、不必要な形式やエゴがないのが印象的で、それはアランやヘンリー・コーノにも共通するところである。しかし、マットの外で、不必要な形式やエゴがなのが印象的で、それはアランやヘンリー・コーノにも共通するところである。しかし、マットの上で、ある人は「荒っぽい」と言うかもしれないそれに驚かされた。私はアランのアドバイスを受けて受け身を気をつけていたため、すべてがとてもうまくいった。後日、アランに、彼の友人との出会いから無事に生還したことを手紙で伝えた。

左から、ケン・コティエ、ヘンリー・コーノ、ア ラン・ラドック。

左から、ケン・コティエ、ヘンリー・コーノ、アラン・ラドック。

コティエは国際合気道連盟の上級会員および指導委員として活躍した。

また、英国合気道連盟の上級会員でもあった。2002年1月13日、コティエは合気会より「師範」の称号を授与された。2007年、七段に昇段。2008年6月8日、逝去。

ケン・コティエの七段位認定証、「第392号」 の数字が記されている。

ケン・コティエの七段位認定証、「第392号」の数字が記されている。

【謝辞】この記事のために資料を集めてくれた、コティエの親しい生徒であるシェーン・ライリー師範に感謝の意を表します。また、補足情報を提供してくれたフィリップ・スミス師範に深謝申し上げます。


erard文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。

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横浜合気道場

横浜合気道場は、公益財団法人合気会の「公認道場」です。

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稽古時間

横浜合気道場の授業は日本語英語フランス語で行われますので、英語が全く分からない方も大歓迎です。

  • 水曜日 17:00~18:00 - 若者と大人(14歳以上)
  • 金曜日 15:30~16:30 - 2年生から5年生までの子供
  • 土曜日 10:00~11:00 - 子供(6歳から13歳)
  • 土曜日 11:10~12:10 - 若者と大人(14歳以上)
重要:金曜日のクラスは、サンモールインターナショナルスクールに在籍する学生のみを対象としています。 練習は学校の保険でカバーされます。

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