随想「千葉紹隆師範を偲んで」

随想「千葉紹隆師範を偲んで」

本特集の結びとして、ここまで大東流合気柔術四国の歴史、技法を案内してきた合気研究家ギヨーム・エラール師が、師匠との避遁、そこでどのように学び、海外副指導部長となったのか、また、いかにこの大東流を次の世代へつないでいくべきか、思いの丈を綴る随想文をお贈りしよう。

秘伝21年4月号表紙 thumb 190xauto 17458この記事は、「月刊秘伝」2021年月号に掲載されました。

少年時代の私は、日本文化と武道にすっかり魅了されていて、一般に外国人が思い描きがちな「日出づる国」の夢相一で頭を膨らませていた。それは、人里離れた場所で苦行のような生活をする老師が存在し、もし彼らの弟子になることが叶えば、戦いの奥義を直接学べるだろうというようなことだ。

成長するにつれて日本に関する知識は増えていき、東京へ移り住みたいという夢は持ち続けていたが、私はより現実的な期待を持つようになっていた。半ば不可能だと思っていたが、私は幸運に導かれ、ついに老師範の弟子になった。そこに至るまではかなりの時間と努力を要したが、その間、私は大東流のみならず、日本という国について多くを学ぶことになった。

千葉先生との体験

私の最初の大東流合気柔術の師となる小林清泰先生を紹介してくれたのは、東京在住歴の長いフランス人、オリビエ・ゴーランだった。小林先生は八段で、久琢磨先生から教授代理の允可を受けた方であり、琢磨会の幹事長も務めている。小林先生の技は素晴らしく、私はその場で先生に弟子入りしたのだった。彼は、大東流に対する私の真撃な姿勢を見て、その2、3ケ月後、小林先生より更に上位の千葉紹隆先生に私を紹介してくれると言った。オリビエによると、千葉先生は年に2回セミナーを行っており、そこには関西地域の大東流のトップの講師たちが参加するとい、つことだった。私は80歳の老師のご自宅に招待された。徳島県三好市にある寺院の住職でもある千葉先生は、まさに人里離れた山奥の寺に住う老師範だったのだ!

小林清泰先生と筆者の受け身稽古(2008年、東京セミナー)。

小林清泰先生と筆者の受け身稽古(2008年、東京セミナー)。

小林先生とお会いした時にも感じたことだが、千葉先生の大東流は革命的で、私の合気の理解に大きな影響を与えた。私はまだ若く、経験も少なかったため、彼のセミナーを理解することは大変難しかったが、その教えのーつひとつが、真の「マスタークラス」と呼ぶべき素晴らしいものだったことは断言できる。千葉先生は、素早い連続技を披露されたが、その動き全てに関し、事細かな説明を加えられた。私には付いていくのさえ難しく、すぐに自分の力不足を痛感した。幸い、オリビエと佐藤英明先生が私を助けてくれた。技術レベルの高さに私は驚樗したが、更なる衝撃だったのは、セミナーの稽古時間の長さだった。トータルすると1日に556時間稽古をするのだ。きちんとしたウォームアップもないまま、関節技と抑え技を練習することは、かなりの不快感をもたらした。家に帰るときには、私の背中は痛み、両手首は赤く腫れ上がっていた。千葉先生は、指の置き方に関して、非常に独特のやり方を弟子たちに指導されていた。私の両手首はずっと座挙しており、夜眠ることができないほどだった。

sato hideaki guillaume erard

佐藤英明先生と筆者(2021年、大東流合気柔術四国本部道場)。

正直に言えば、最初の2、3年間に関しては、このセミナーに参加することはかなり気が重かったが、オリビエの仰せに従い、また非常に貴重な何かがそこにあるという直感も手伝って、何とかセミナーに足を運んでいた。

東京から四国へ定期的に通うのは容易ではない。徳島脇町の本部道場までどうしてたって片道6時間以上かかってしまう。言うまでもなく、毎回東京から通うのは、我々を含めたほんのわずかの人数だった。そしてその数は年々確実に減ってゆき、やがてオリビエと私だけになった。「山奥に住む簡単には会えない老師」というイメージに話を戻すと、そうした老師から学ぶということは、その山奥がどんなに遠くても辿り着きたいという気持ちと、それにも増してそこに何度も通う熱意があるかどうかが重要なのだ。

オリビエに巻物の説明をする千葉先生と佐藤先生。

オリビエに巻物の説明をする千葉先生と佐藤先生。

時間をかけることの重要性

日本人以外の武道家を驚かせるだろ^っこと一つある。それは、エネルギーと時間とお金を注ぎ込んでセミナーに参加したにもかかわらず、千葉先生は私に殆ど話しかけることをされなかったことだ。最初の2、3年間は、改善占一について直すこともしていただけなかった。もちろん、歓迎されていないという雰囲気は微塵もなかったが、私は孤立していると感じた。

外国人はよく日本社会に溶け込むのは困難だと考えるが、それは違うと思う。実際、日本人は親切で温かく迎えてくれるし、自分自身の体験に昭一らし合わせても、最初の段階で拒絶されたことはないに等しい。しかしながら、一度入り込んだら、そこから本当の試練が始まるのだ。その時から、適切な振舞いを学ぶことや、数多の義務をこなすことが求められる。そこに来て初めて、真に日本人社会の輪の中に迎えられたことになるのだ。

少しずつ、私は四国の弟子たちと交流し、友情を育んで行った。佐藤先生は毎回、私が多少なりとも有益な情報を得て帰れるように気を配ってくださった。そんな日々を送っていたある日、道場に入った時、私は自分の名札が名札掛けにかかっているのを見た。

四国本部道場の名札掛け。

四国本部道場の名札掛け。

その時から、千葉先生は私の直すべき点などを指摘してくださるようになった。さらに幸運なことに、私は千葉先生から一対一の指導を受けることができた。その時に、ョーロッパで行う私の合気道のセミナーの折に、大東流の技の一部を教えることを許可してくださったのだ。

この話をフランスの友人にすると、彼らは「3年間無駄にしたことをどう感じているか?」と訊いてくる。私の答えはこうだ。その3年間は無駄ではなく、むしろその反対で、自分が成熟するために必要な時間だった。私が後々受け取ることになる知識について、責任を持って扱えるだけの度量が、3年の間にようやく身についたのだ、と。

晴れて千葉先生の門人になってからは、先生は、私がこれまで行っていたのとはかなり違う技を教えてくださるようになった。このことは私をとても混乱させ、この矛盾についてオリビエに尋ねると、彼はこう答えた。「君が本当の弟子となったから、先生は本当のやり方を教えてくれているのだよ」。付け加えて言うと、武田惣角先生と中津平三郎先生のように、千葉先生はある程度、弟子に合わせて指導されていた。先生は、私の個性や身体的特徴を見て、私に最も適していると思われることを教えてくださったのだ。

プライベート稽古の時、筆者とオリビエに指導する千葉先生。

プライベート稽古の時、筆者とオリビエに指導する千葉先生。

老師から学ぶ後世のための記録

大東流における興味深い傾向として、先生が弟子に比べてかなり高齢なことがよくある。武田惣角先生は77歳の時に朝日新聞で教え始めた。一方、千葉先生が中津平三郎先生から習い始めた時、中津先生はまだ五十代後半であったが、脳卒中を患い、体には部分的に麻庫が残っていた。同様に小林清泰先生のような琢磨会の高弟は、久先生が70代の時に習い始めており、久先生自身もまた脳卒中を患った。年齢、或いは体の不自由さが、大東流のこの系統における技の稽古法に影響を与えた可能性を考えざるを得ない。武田時宗先生も同様で、時宗先生は父である惣角先生を亡くしたとき27歳だった。千葉先生と出会った時、私は30歳で先生は80歳だった。

大東流は(現代の合気道の多くとは対照的に)余分な力や運動能力を必要としないところが特徴であり、そこでは高齢な指導者から学ぶことが役立っていると言えるだろう。合気道とは違い、畳の上で動ける範囲はかなり限られており、大東流の弟子たちには、早い段階で技を細部に至るまで正確に行うことが求められる。最初の数ケ月、ともすると数年は、座った状態でのテクニックを学ぶことに費やされる。ダイナミックな稽古、乱取り、激しい受け身などは後々の話である。

私はこれこそが大東流の特徴であると考える。弟子たちは、技の作用に対する理解を深めるため、相当に集中しなければならない。そしてそれは直接教わるべきなのだ。

もう一つ気が付いたのが、私は千葉先生の弟子たちの中で最後の世代であるということだった。それゆえに、私は先生の教えを残すための方法を考えるようになり、彼の系統の歴史を広く知らせるようにした。千葉先生は最終的にはインタビューを受けてくださり、彼の武道における人生の旅について語ってくださった。我々は先生のご自宅に伺い、非常に長いビデオを撮影した。先生は質問に答えてくださり、佐藤先生が補足の説明をしてくださった。

翻訳、編集、そして千葉先生が提供してくれた巻物をはじめとする写真・メモ・文書資料の研究に、オリビエと私は一年以上を費やした後、ようやく一連の談話ビデオをリリースしたところ、海外で評判を呼び、大東流と、特に千葉先生に対する認識が、外国人修行者の間で広まった。このビデオを作ることによって、私は畳の上で稽古するのと同じぐらいのことを学んだと言える。私は今でもこの資料を見返しているが、何年も日本に住みながら稽古を重ね、自分自身に知識が増えたことによって、その都度新しい発見がある。いま見れば、これらのビデオは完壁には程遠いが、私はこれを制作したことを意義深く思っているし、ビデオは確かに良い影響をもたらした。

段位と称号の意味子供のように稽古すること

2、3年の後、私は四国に呼ばれ、千葉先生の署名の入った証書を受け取った。驚いたことに、三段になっていた。私は実際そんなレベルには程遠いと佐藤先生に訴えたところ、先生はこう仰った。「証書の認可の判断基準にはいろいろな要素がある。純粋に技術レベルで判断すること以外に、あなたが我々の系統のためにしてくれた仕事とその貢献は、証書に書かれた段位に値する」と。そして、「これからあなたはこの称号に見合う十分な技術を身につける責任がある」と、彼は付け加えた。このことが私の尻に火をつけた。私はこれまで以上に稽古に打ち込み、四国へ行く回数を増やし、佐藤先生の指導される四国本部の正規の稽古に参加し、可能な限り多くを学ぶよう努めた。

千葉先生からいただいた証書。武田の家紋が入っている。

千葉先生からいただいた証書。武田の家紋が入っている。

脇町は地理的に比較的孤立した場所にあるので、佐藤先生のクラスの殆どは子供たちであった。大人と稽古したかった私は最初、その状況に失望したが、ある日、佐藤先生が私に中学生くらいの女の子とペアを組ませた時に、私の気持ちは一変した。

子供と大人が一緒に稽古する。この小さな少女の名前はサキちゃん。その技量の素晴らしさに感心するしかない。

子供と大人が一緒に稽古する。この小さな少女の名前はサキちゃん。その技量の素晴らしさに感心するしかない。

その少女は、年齢も体格も私の半分しかなかったが、彼女に押さえつけられた時、私は本当に動けないとい^っ状況を初体験した。私はこの時初めて、小柄な人物でも体格の勝る相手を制することができるという合気の主張が真実だったことを認識し、実感したのだ。彼女には心から感謝している。私のエゴを打ちのめしてくれたお陰で、その後の稽古で多くを学ぶことができた。

ここでは、指導のスタイルも違う。我々は通常、稽古は畳の上に居る時だけと考えるが、四国ではそうではない。全ての時間が大東流に捧げられるのだ。クラスやセミナー開始前の朝の時間、食事の時、果ては銭湯においても稽古は続いている。すべての時間、私はひたすら千葉先生を注視していた。私は特に先生の歩き方や、箸の持ち方、あるいはドアの開け方に注意を払った。そしてある日、私は先生がどうやって技を掛けるのか理解できるようになった。私は千葉先生の一本捕の仕方に困惑したことがあった。先生は膝が悪かったのでバランスを崩されていると思っていたが、後になって、先生が故意にバランスを欠いた状能一で相手をコントロールしていたことが分かった。そしてそれこそがこの技のポイントだった。私が長い間欠陥だと思っていたものが、実はテクニックの極めて重要な側面だったのだ。

どんな時でも弟子たちに大東流を伝えることを旨とする千葉先生と佐藤先生。

どんな時でも弟子たちに大東流を伝えることを旨とする千葉先生と佐藤先生。

千葉先生は80代で元気だったが、時々道場で弟子と一緒に昼寝をした。そうした休憩時間やタ飯時など、いつもくだけた場でいろいろ教えてくれた。鮮明に覚えているのが、ある日、銭湯の脱衣所で、先生は私に講義を始めた。他の人たちが温かい湯を楽しんでいる間、私は先生の講義を拝聴していた。日く「湯屋にいる時は、敵の体が濡れていて、(服を着ていないから)服も掴めない。そういう時は、首の絞め技も応用して使わなければならない」ということだった。私は千葉先生が心を許してくださったことを感じ、しぼし内弟子になったような気持ちを味わったものだった。

四国本部2020年10月20日火曜日夜のクラス参加者一堂による記念撮影。

四国本部2020年10月20日火曜日夜のクラス参加者一堂による記念撮影。

前に続く道

千葉先生は86歳で亡くなり、現在は佐藤英明先生が脇町の四国本部道場の指導責任者となっている。このことは私に、自分が属する系統と自身の役割について熟考させる一因となった。前述したが、日本でその組織の一員になるということは、期待される役割を果たすことが明確に求められるということだ。海外に幾つかの支部を設立した今、その意味で、いただいた称号、巻物、そして責任は、自己満足のためではなく、むしろ果たすべき義務を自覚させるものなのである。中津平三郎の大東流合気柔術が関西以外で教えられるようになったのは千葉先生の存在意義からこそであり、また、先生は私と私の先輩オリビエ・ゴーランにこの遺産を世界で共有するよう託した。

「ギヨーム、オリビエお二人がこんなにご熱心にやってくれているので、フランスから始まってイタリア、EU各国に広めるにあたって、”スナップ写真”では無くて”生きたもの”を、実際に触れ合って実践して継承してほしいのです」千葉師範

千葉先生よりいただいた海外指導における免状。

千葉先生よりいただいた海外指導における免状。

我々は、自身の弟子の最初の世代となる黒帯(初段)を認可した。そして時がくれば、彼らはそれを次の世代に伝えることになる。願わくば、その時までに、この新しい世代の指導者たちに首尾よく技を伝えたい。そして、千葉先生から伝えられた言葉、文化、倫理的な側面も、技と同様に重要なので、それも受け継いでいきたい。

筆者がフランスの自身の弟子に証書を授ける様子。

筆者がフランスの自身の弟子に証書を授ける様子。

私たちは彼の遺産を敬い、この大東流の伝統を受け継ぎ次世代にも存続させるために最善を尽くしていきます。

翻訳◎三上尚子

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