“継承者”千葉紹隆の探求 久琢磨も認めた“畳一枚、直下に決する”技法

“継承者”千葉紹隆の探求 久琢磨も認めた“畳一枚、直下に決する”技法

中津平三郎の技を四国の地で受け継ぎ、北海道の武田時宗宗家の下でも修行に励んだ故・千葉紹隆師範 。琢磨会との交流を経て、久琢磨師にも認められたその技法は、いかに育まれ、変化していったのか。千葉師生前のインタビューを基に「継承者による大東流さらなる探求」の模様を紹介しよう。

秘伝21年4月号表紙 thumb 190xauto 17458この記事は、「月刊秘伝」2021年4月号に掲載されました。

戦時中の幼少期と武道の発見。

千葉紹隆は1931年に徳島県三好市池田町で生まれた。千葉が幼少期の話をした時、当時日本は日中戦争が続いていたため、生活環境は非常に厳しくその結果ほとんどの資源が非常に不足していたと言っていた。

彼が受けた教育もまた、1930年代半ばからは軍が事実上政府を乗っ取り、学校では強い愛国心を強調するように拍車を掛けられた。例えば、彼らは精神訓練を行うよう指示された。確かに、若い紹隆が通っていた小学校はすぐに国民学校となり、彼と仲間の男子学生は職能実務教育と基本的な軍事訓練を組み合わせた青年学校に、そして女子は家政学に通うことが必須であった。この制度に対応する為、国家主義的な教科書が必読となった。

その時までに、政府はほとんどの西洋のスポーツを禁止した。代わりに、日本の武道の修正版は、体育と国家宣伝の媒体として使用された。千葉は主に剣道と柔道を練習していたが、剣道の防具は嵩張るのが嫌いで柔道が好きだとよく言っていた。当時の日本人としては背が高い人々の一人であった彼は、柔道の身体的側面も楽しんでいたため、彼の先生は大東流合気柔術を取り入れるよう勧め、古武道は柔道よりも効果的であると論議し、事実として大半の大東流の当て身は効果的であった。これは千葉への大きな関心を呼び起こしたが、14歳になった1945年7月頃、大日本帝国海軍航空隊、具体的には特別攻撃隊に入隊せよという手紙を海軍大佐から終戦する約3ヶ月前に受け取った。当時の政治情勢と国家宣伝の中で育った彼は、志願するというのが強制的であった為入隊することを決心し、採用される為の身体検査を受けに行くと日本は降伏したと告げられ、「それだけだ、負けたんだ」と思った。

千葉は、戦後の状況が以前よりもさらに厳しい生活環境になっていた池田に戻った。この強制帰還が彼に地元の大東流の先生、中津平三郎と呼ばれる男に最終的に会う機会を与えた。

中津の学生になる

終戦後、千葉紹隆が彼の生徒になったとき、中津は彼の仕事場の四畳(約6平方メートル)の待合室で大東流を教えていた。その結果、蒔田完一や大西正仁や他数名の仲間達は、一畳の中で真っ直ぐ下に投げるように教えられた。そして千葉も、大東流合気柔術は理想的には1秒の時間で1畳の空間内で行うと言った。稽古は屋外や堅い硬い木張りの床でも行われた。

「中津接骨院の中の道場は絶対募集せん。彼はお酒が好きだったので、私は彼に日本酒を持って行って、いつも「あ、どうぞ」彼は「ありがとう」と言った、それが私が始めた方法。」千葉先生が中津平三郎の弟子になったきっかけについて語っている。

中津の教えは、ほとんどの大東流合気柔術家達が今日知っている典型的な秘伝目録の課程と異なった。生徒達は沢山の膝行を学び始め、すぐに立ち技に入り、最初に極め技、固め技、投げ技に取り組んだ。千葉は彼の稽古に夢中になり、しばしば夢の中でさえも技を行なっていた。

屋外での稽古もよくして、そこには裁縫学校があったから、時々地面に針が落ちていてとても痛かった!千葉先生が中津平三郎の稽古について語っている。

稽古中、中津は「こういう風に」とは言わず、柔道整復師だったので、人体の仕組みについて沢山教えてくれた。彼は循環器系や指圧点をよく知っていた為、特定のツボを押すことの効果についても話してくれた。人体解剖学に関するこの知識は、今日の四国の技術に今でもはっきりと受け継がれている。稽古前、中津は千葉に患者の治療の助手として頼むこともよくあった。中津はかなりの短気で徹底した人であり、技も手厳しいものであったが怪我をした際はいつもその場で彼に治療してもらうことができて幸運であったと千葉は言う。

生徒たちに囲まれた中津平三郎(前列中央)、後列右端が千葉紹隆師範。

生徒たちに囲まれた中津平三郎(前列中央)、後列右端が千葉紹隆師範。

中津は自身の師匠である武田惣角の様に、生徒一人ひとりに合わせた指導をしていた。

総伝の写真を見てもわかるように、中津先生が登場するのは、後半の8巻9巻あたりですね。後半の巻しか出ておられないのは、そのあたりの技を惣角先生から直接に習ったのが中津先生であったからだと思います。惣角先生は、全員にすべてを教えたのではなく、各個人の力量に応じて教えたんですね。だから吉田さんとか川添さんとか、あの写真に登場する人たちの弟子が、今もし演武をしたら、それが一遍でわかると思いますよ。中津先生自身も相手を見て教えた。久先生もそう。私自身もそうです。千葉紹隆 合気ニュース #129

 その結果、千葉紹隆の大東流合気柔術の同門である大西正仁との間でも違いを実感することができた。

千葉師範とともに中津平三郎から学んだ大西正仁師範(1928-2015)が。ギヨーム師を相手に、得意としていた掴みを実演。

千葉師範とともに中津平三郎から学んだ大西正仁師範(1928-2015)が。ギヨーム師を相手に、得意としていた掴みを実演。

中津が66歳で亡くなる1960年12月まで千葉は中津に師事し、中津より秘伝目録、秘伝奥儀、合気之術、御信用之手を許されている。

1960年12月、中津平三郎から千葉紹隆に授与された「三十六ヶ条右奥儀御信用之手」免状。

1960年12月、中津平三郎から千葉紹隆に授与された「三十六ヶ条右奥儀御信用之手」免状。

武田時宗と学ぶ

中津は四国の千葉や蒔田完一、他数人の学生達を武田時宗に推薦し、北海道網走にある大東館で稽古を受けることとなった。大東館は畳の面積がはるかに大きく、稽古自体も非常に異なっていたため、彼等が慣れていた環境とは大きく異なっていた。そして彼等はここで初めて時宗が制定した秘伝目録118ヶ条を学んだ。大東流合気柔術でよく目にする座り技を生徒達は幅広く練習した。彼らはまた、秘伝目録一ヶ條と二ヶ條から専門的に学び始めた。しばらくして彼らは生徒として受け入れられると道場の名札掛けの木札に名前が記入され、三カ條、四ヶ絛、五ヵ條などの他のヶ條からも技術を学ぶことができた。

武器を使用しての稽古場所も、慣れ親しんで稽古していた環境よりも筋肉を構築するという点で鍛錬に鍛錬を重ねることができた。彼らは時宗の下で広く学んだが、鈴木新八の下でも学んだ。四国本部の免許や道着は武田の家紋がほん日でも使用されている。家紋の使用を許可されている事からも、武田と四国が密接な関係であったとこがよくわかる。

 千葉師範が佐藤英明師範に授与した武田家の家紋が入った免許。

千葉師範が佐藤英明師範に授与した武田家の家紋が入った免許。

その時から、千葉と蒔田は時宗の教えも自分たちの教えの中に取り混ぜた。

「合気武道は武田家の技です。大東館での経験を経て、私たちは本当に時宗先生を尊敬していましたし、それはお互いのものでした。この頃から、武田先生の考え方を四国に統合するようになりました。その証拠に四国は武田菱を使うことを認められています。これは大東館と時宗先生から四国の弟子たちへの信頼の証です。時宗先生が亡くなられた後、大東流合気武道四国本部の名称を使わずに、大東流合気柔術四国本部となりましたが、今も免状に武田菱を入れているのは大東流の祖、武田惣角先生、武田時宗先生の大東館もやはり尊敬している気持ちで武田菱を入れているんです」。千葉紹隆

久琢磨久との出会い

1967年久琢磨は蒔田完一に指導のため徳島に招待され、千葉は久琢磨に出会う事となった。その講習会で千葉は実演するよう頼まれ、それを見た久は直ぐにに中津の技である事を認識した。後に、四国と大阪両方の技術を組み合わせると技術が強化されると言い、久は千葉に彼の大阪の生徒達に技術を教えるよう頼んだ。

「四国と関西の技はまったく違いました。だから久先生に 『四国の技を関西で教え』と言われて教えましたが、痛くて誰もする者は無かったです。一般的に、稽古の初めから終わりの中で、痛い技が一番記憶に残ります。だからこそ私たちは、『総伝技 』のような痛い技をすることに勝賭してはなりません。そうでなければ、これらの動きの本質的なポイントを学ぶことはできないし、大東流の技法に自信を持つこともできません。技が杜撰なものであれば、技の根幹をつかむことはできません。そして、このようにしてしか『返し技 』を理解することができないのです」千葉紹隆

大東館のニュースレター

大東館のニュースレター(1973年8月)

久は実際に、千葉の技は琢磨会の人々にとって重要な知識の源であるリとを見た。

「ある時、久琢磨先生は私の技の理解度を確認されることにしました。試してみたいと思われたのでしょう。 『合気投げをしてみなさい』と言われ、久先生に私は『掴んでも掴んでなくてもどちらでもいいので、攻撃してください』と言うと、弟子の方が突いてきたので脇に入って数メートル飛ばしました。 『そして次の者』と私が言いますと、久先生が『止め、怪我するわ』と言いました。それからは私に対しては何も言われることはありませんでした。大阪での合同練習の時には久先生は私を横に座らせていました。すると久先生は、 『見てみろ、あの技はなっていないだろう?』と言うので、私が少し困りながら領くと、久先生は『ちょっと悪いけど、正確にどうやるか教えてあげてくれるか』と言われました」

千葉紹隆

久琢磨の指揮の下、小林清弘師範に技をかける蒔田完一。左端に森恕師範、左から2番目に千葉紹隆(1973年5月)。

久琢磨の指揮の下、小林清弘師範に技をかける蒔田完一。左端に森恕師範、左から2番目に千葉紹隆(1973年5月)。

今日の大東流

1980年に久が亡くなった後も琢磨会は千葉の指導の下、合同稽古は続けられた。大東流合気柔術四国本部道場の定例稽古は、弟子の佐藤英明が指導するが、千葉は時折プライベート稽古を行っていた。また年に2回脇町で千葉が指導する大規模なセミナーも開催されていた。

脇町での個人教授の際、ギヨーム師に一ヶ条を披露する千葉師範。

脇町での個人教授の際、ギヨーム師に一ヶ条を披露する千葉師範。

中津が武田と植芝から独自の技術を学んだ一方で、千葉は私たちの練習方法は今日の時間や環境に適さなければならないことを認め、大東流は多くの人々が考えるよりもいくらか順応性があることを示した。

「各時代には、それぞれ違うことが起こります。その時の状況に応じて、人々の考えは進化し、精神は変わっていくことでしょう。しかし物事が変わらなかったら、誰も興味を持たないだろうし、大東流も今日とは無関係になってしまいます。技の本質は変わりません。ただ、教える方の気持ちと教え方が、時代、時代によって変わるということです」千葉紹隆

千葉紹隆は肺手術に伴う合併症により、2017年0月3日に歳で亡くなった。千葉は道場の責任者を愛弟子である佐藤英明、七段師範に後任した。


erard文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。

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横浜合気道場の授業は日本語英語フランス語で行われますので、英語が全く分からない方も大歓迎です。

  • 水曜日 17:00~18:00 - 若者と大人(14歳以上)
  • 金曜日 15:30~16:30 - 2年生から5年生までの子供
  • 土曜日 10:00~11:00 - 子供(6歳から13歳)
  • 土曜日 11:10~12:10 - 若者と大人(14歳以上)
重要:金曜日のクラスは、サンモールインターナショナルスクールに在籍する学生のみを対象としています。 練習は学校の保険でカバーされます。

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