ニューヨーク合気会創設者バージニア・メイヒュー伝記

ニューヨーク合気会創設者バージニア・メイヒュー伝記

合気道研究家ギヨーム・エラール氏が、合気道の発展と普及に寄与した外国人武道家の伝記を紹介していく本シリーズ。今回はNY合気会創設メンバーにして、〝女性合気道家の魁〟バージニア ・メイヒューの物語。女性ならではの感性から合気道を追い求め、植芝盛平翁の姿に見た、内面より生まれる〝真の強さ〟とは!?

KOR2022 02この記事は、「月刊秘伝」2022年04月号に掲載されました。

私たち合気道家の多くは、合気道のさまざまな先駆者たちの生涯を読みたいと願っています。「色彩曲豆かで感動的な物語には事欠かない」そのような人物の一人が、初期のアメリカ合気道の修練者バージニア・メイヒューです。彼女の名前は時々より有名な指導者によって言及されていますが、彼女の人生について知るための情報は、これまで限られたものしかありませんでした。今回、私は彼女の信じられないほどの人生を振り返り、合気道という武道の発達に与えた影響に焦点を当てたいと思います。

生い立ち

バージニア・メイヒューは1928年9月 21日にニューヨーク生まれた。14歳でハイスクールを中退し、有名な衣装デザイナー、ギルバート・エイドリアンに雇われ、1944年から46年までヴォーグ誌とタウン&カントリー誌に掲載された香水の広告キャンペーン「Saint and Sinner」のモデルになる。その後、シャルベールの香水ライン「Breathless… Fabulous」の顔として活躍した。

「セインツアンドシナーズ」(左)「ブレスレス、ファビュラス」(右)香水ラインナップの広告に登場したバージニア・メイヒュー。「セインツアンドシナーズ」(左)「ブレスレス、ファビュラス」(右)香水ラインナップの広告に登場したバージニア・メイヒュー。

バージニアはその後、ニューヨークの芸術、音楽、政治、文学、思想の復興拠点であったグリニッジビレッジに移り住む。ギターを弾きながら、地元のナイトクラブでフォークソングを演奏した。1953年頃、彼女は約2年間カリブ海に滞在し、ハイチ、サントドミンゴ、アメリカ領ヴァージン諸島のナイトクラブで歌を披露していた。

ginny mayhew show

武道のはじまり

ニューヨークに戻ると、バージニアは柔道を通じて日本の武道に出会い、「ニューヨーク道場」のジョージ吉田に5年間師事した。そこで同じ柔道二段のエディ萩原と出会い、二人は結婚する。

メイヒューとフジケンイ(チ柔道三段)、ロッカウェイビーチ、1960年9月12日。メイヒューとフジケンイ(チ柔道三段)、ロッカウェイビーチ、1960年9月12日。

バージニアは5年ほど練習して初段を取得したが、柔道の練習が精神的な原則よりもスポーツ的な側面に重点を置きすぎていることに次第に不満を抱くようになった。合気道が「愛と慈悲と協調」に焦点をあてた武道であることを知ったとき、精神的な発達の絶え間ない探求こそが自分の人生であると、合気道についてもっと知ろうと決めた。彼女と萩原は1962年に小原裕雄のもとで合気道を学び始めた。弐段であった小原は、1961年からニューヨーク大学で非公式に合気道を教えていた。

ニューヨーク合気会の設立1962年、エディー萩原、バージニア・メイヒューをはじめとする数名が小原に協力して、ウエスト19番街25番地にニューヨーク合気会を設立した。稽古が盛んになり、生徒が入会するようになった。初段を取得した後、バージニアは合気道の創始者から学ぶために1963年の春に初めて日本を訪れ、旧合気会本部道場で約1年を過ごし、植芝盛平に会い、受けを取る機会を得た。他の多くの人々と同様、彼女はこの老師に魅了された。

「大先生(植芝盛平)は楽しんでおられました。先生は自然体でした。先生はその日に言いたいことは何でもおっしゃいました。唸ったり叫んだりするのと同じくらい簡単に、笑ったり微笑んだりすることができました。彼はすべての瞬間から喜びを得ていたのです」
(バージーーア・メイヒュー)

大先生は、「女性だからこそ、真の強さや力は内面から生まれることを理解できるだろう」と言われたそうだ。独立心旺盛な彼女は、他の日本人男性のやり方と比べ、大先生のくだけたやり方を好んだようだ。

「私は、大先生の女性への接し方と男性への接し方の違いを見たことがありません」
(メイヒュー)

メイヒューは、柔道の経験で転ぶことには慣れていたので、自分がどうしてマットに倒れるのかがいつもわかっていた。しかし、大先生に初めて投げられたとき、どうしてそうなったのかがよくわからなかったと、後に述懐している。彼女は大先生のことを、体の動きを超えた精神の強さを持っているように思っていたのである。

「ある日、大先生は私に直接肉体的な接触をすることなく、私を動けなくしました……彼の強さは、肉体の背後に隠されていたのです」
(メイヒュー)

1963年6月10日付の「合気道新聞」に東京滞在記が掲載された。写真は合気道本部で稽古に励むメイヒュー。受けは荒川氏。1963年6月10日付の「合気道新聞」に東京滞在記が掲載された。写真は合気道本部で稽古に励むメイヒュー。受けは荒川氏。

本部道場にいた多くの外国人と同様、バージニアは、アメリカに合気道を紹介した藤平光一に特に感化された。彼は英語が堪能な数少ない指導者の一人であった。もう一人、英語でコミュニケーションできる指導者が山田戴務であったが、彼は後に次のように回想している。

「当時、日本以外の合気道はすべて藤平先生が統括していました。そこで、バージーーア・メイヒューという女性が来日したとき、私と家族が個人的に面倒をみて、友達になったのです」
(山田嘉光)

帰国後、ニューヨーク合気会のメンバーが国連で演武会を行った。道場がどんどん成功しても、バージニアは家賃を払うために副業をよくしていた。また、合気道への関心を高めるための努力も惜しまなかった。1962年には『トウナイト・ショー』(ジョニー・カーソン主演)に出演するなど、テレビで合気道の演武を披露することもあった。

国連でのデモで藤平光一師範の気の体操を披露するメイヒュー。右は小原裕雄。国連でのデモで藤平光一師範の気の体操を披露するメイヒュー。右は小原裕雄。

1963年、小原が日本に帰国すると、バージニアはニューヨーク合気会の館長を引き受けた。彼女の尽力により新聞で合気道が紹介されるようになり、1964年5月11日から17日まで開催されたニューヨーク万国博覧会に合気道が参加できるようになった。その準備のため、1964年2月にも東京に短期滞在し、その模様は英語版『Aikido Newspaper』1964年4月号で報じられている。

英語版「合気道新聞」号 2 第(1964年4月)に掲載されたメイヒューの記事。英語版「合気道新聞」号 2 第(1964年4月)に掲載されたメイヒューの記事。

バージニアは1964年2月、創始者の内弟子である山田嘉光四段に伴われてニューヨークに帰ってきた。

「そして1964年、万国博覧会のためにニューヨークへ行きました。藤平先生と一緒に日本館に行き、演武を披露する予定でした。しかし、藤平先生は行けなくなったため、そこで私が一人でやってきたのですが、ニューヨークで仲間に会い、ニューヨーク合気会というところに行きました。そして、会員と話をし、首席師範になったのです」
(山田嘉光)

日本への帰還

ニューヨーク合気会の運営から解放され、萩原と離婚したばかりのバージニアは、本部道場生として合気道を学ぶために再び日本へ渡った。その途上の1964年の冬、3週間ほどハワイに滞在した。そこで藤平光一をはじめ、多くの指導者のもとで稽古をする機会を得た。

ハワイで禊ぎをするマイヤー・グー、バージニア・メイヒュー、ヤマモトユキオ、ヘンリー・ホリイ、ヨシオカサダオ。ハワイで禊ぎをするマイヤー・グー、バージニア・メイヒュー、ヤマモトユキオ、ヘンリー・ホリイ、ヨシオカサダオ。

1964年12月に東京に到着したバージニアは、1964年10月に偶然にも本部で働くことになった日系カナダ人のヘンリー・コーノと知り合いになる。二人は、生涯続く親密な友情を築いた。二人とも釦代後半で、若い生徒たちとは異なり、合気道の身体的な面よりも、その背後にある包括的な原理原則に特別な関心を抱いていた。また、バージニアは精神的な成長を求めて、定期的に禅の眼想にも取り組んでいた。

メイヒューを指導する藤平光一師範。右奥はヘンリー・コーノ。メイヒューを指導する藤平光一師範。右奥はヘンリー・コーノ。

彼らは、アラン・ラドック、ケネス・コティア、テリー・ドブソン、ジョアン・シマモト、ジョージ・ウィラード、その他数名の外国人とともに、比較的親しいグループを形成していた。

o sensei ruddock植芝盛平翁の指導風景と、見取り稽古するアラン・ラドック(向かって右から2 番目 )。

彼女は女性であるため正式な内弟子にはなれなかったが、大先生の家で料理や掃除を手伝ったため、大先生と接することができた。

1966年10日に発行されたメイヒューの弐段証書には、大先生(右写真)の印が押されている。1966年10日に発行されたメイヒューの弐段証書には、大先生(右写真)の印が押されている。

香港合気道の始動

1966年、バージニアは大先生から香港で道場を始める許可を得た。出発する前に手書きの巻物をプレゼントされ、道場に飾ることができるようになった。

大先生がバージニア・メイヒューに贈った書の前て、香港合気会の生徒たちと集合写真を撮るアラン・ラドック。 「勝速日」という文字は、古事記の中で大先生が好んで使った表現(正勝吾勝速日)の一部。大先生がバージニア・メイヒューに贈った書の前て、香港合気会の生徒たちと集合写真を撮るアラン・ラドック。 「勝速日」という文字は、古事記の中で大先生が好んで使った表現(正勝吾勝速日)の一部。

香港に到着したのは火曜日だった。早速、翌週の金曜日に九龍のYMCAで演武を行い、翌週の月曜日にはクラスを教え始めた。

香港合気会の前でポーズをとるバージニア・メイヒュー氏。香港合気会の前でポーズをとるバージニア・メイヒュー氏。

翌年には九龍の尖沙阻に場所を確保し、香港合気会を設立した。このほかにも、さまざまな場所で指導を行った。香港滞在の最盛期には、300人近い生徒がいた。

「ビルマに合気道をもたらした山口清吾先生は、香港で合気道を教えるヴァージーーア・メイヒューを」局く評価していた」
(アラン・ラドック)

山口清吾師範とメイヒュー。山口清吾師範とメイヒュー。

そのため、コーノやラドックも何度か手伝いに来てくれた。アラン・ラドックは、アイルランドに戻る前、日本滞在の最後に香港で数力月間、実際に教えていた。

香港にてアラン・ラドックとメイヒュー。香港にてアラン・ラドックとメイヒュー。

当時の教え子によると、バージニアは畳の上で身につけた技術を実生活でも使っていたそうだ。九龍の深水捗地区で、暴徒の群れから逃げる香港救急隊の警官を助けたという。その男性はその後、彼女の弟子になったと言われている。

1969年4月26日に植芝盛平が死去した後、バージニアは次のステップに進むことを決意し、後任を手配するために東京に一時帰国している。しかし、これはうまくいかず、約2年間指導者不在の状態が続いたが、合気会から派遣されたケン・コティェが組織を再開させた。そして香港合気道協会を設立し、現在に至っている。

「私は香港に行き、香港協会を設立しました。彼らはバージーーア・メイヒューのもとで稽古をしていたので、香港に着くとすぐに2級に昇級させました」
(ケネス・コティエ)

合気道の授業の後、酒を酌み交わすメイヒューとヘンリー・コーノ、そしてその生徒たち。合気道の授業の後、酒を酌み交わすメイヒューとヘンリー・コーノ、そしてその生徒たち。

アメリカへの帰国と探求

バージニアは米国に帰国した。眼想による気づきとセンタリングの研究を続け、その結果、インドに行き、しばらく教祖のもとで学ぶことになった。帰国後も志を同じくする仲間たちと合気道の稽古を続けるが、正式な役職には就くことはなかった。その後、脳卒中で倒れる。2006年10月26日、77歳でこの世を去った。


erard文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。

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横浜合気道場は、公益財団法人合気会の「公認道場」です。

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稽古時間

横浜合気道場の授業は日本語英語フランス語で行われますので、英語が全く分からない方も大歓迎です。

  • 水曜日 17:00~18:00 - 若者と大人(14歳以上)
  • 金曜日 15:30~16:30 - 2年生から5年生までの子供
  • 土曜日 10:00~11:00 - 子供(6歳から13歳)
  • 土曜日 11:10~12:10 - 若者と大人(14歳以上)
重要:金曜日のクラスは、サンモールインターナショナルスクールに在籍する学生のみを対象としています。 練習は学校の保険でカバーされます。

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